「変わらないな、フロウ。・・・いや、変わったか」
少年の嗚咽の合間に聞こえた声は、旅立った時とはあまり変わりがない。
あえて言うなら、少しだけ疲れているような感じだった。
メリロは階段の方から歩いてくるエルンストに視線を向ける。
その表情は声と同じで、少し疲れているように見えた。
連れ合いを無くしたのだから、無理もないことなのかも知れないが。
「あんたは老けたじゃないか、エルンスト」
ニ人のやり取りを見ていると、友達だと言うのも頷けた。
メリロはこんなにも自然に物言う魔女を見たことはない。
そこには意地悪さも、人を食ったような表情も存在していなかった。
「まあそう言うな。あれから10年以上もたってるんだから」
「そうだねえ、あんたにこんな子達がいるんだから」
「しかし、何故君がここにいる」
魔女とはわずかな距離を保って歩みを停止した父親は、彼女の相貌をのぞきこんだ。
「運命とは恐ろしいものさ。こいつは私の弟子だよ」
その言葉に、エルンストは頷きながら微笑む。
「全くだ。君と出会った時から、この瞬間が仕組まれていたような気がしてならないよ」
「しかし、あんたも酷な事をしたもんさ」
そこでニ人は、小さな嗚咽を漏らしながら泣きつづけている子供の背中を見る。
「死に際に立ち会えなかったのは、リッキーだけじゃないさ。
どんな事をしてでも送り出して欲しいと望んだのは、アゲートの・・・妻の遺言だったからな」
あんなに手荒に送り出したのは、エルンストだけではなく、少年の母親の意志も含まれていたのだ。
最後くらい大切な人々に送られながら逝きたかったろう。
だが少年の母はそれを望まず、我が子の将来の事だけを願っていたのだ。
その深い愛情が、メリロの胸には痛かった。
もしかしたら、あのどうしようもない母が、心の中では自分達兄妹のことを想っていたときもあったのではないかと錯覚しそうになる。
そんな事などあるわけがないのに。
「肝心の母親がいないならしょうがない。
酒でも酌み交わしたいのは山々だが、忙しいから私は行くよ」
そう言って、すぐにでも飛び立って行きそうになる師を見て、メリロは焦って呼び止める。
「師匠、待ってください!」
「なんだバカ弟子」
「エルンストさんを・・・」
そう言いかけて、メリロは先を続けるかどうかを逡巡する。
リッキーは父親の病の事はまだ知らないのだ。
それを告げていいものか、メリロにはわからなかった。
「メリロさん、そこから先は私が話すよ」
そう言って、彼は困惑するメリロに微笑む。
「フロウ、君がここに来たのも何かの縁だ。
あの末息子の後見人になってやってもらえないか」
「どういう事だ」
「俺はもう長くないんだ。妻と同じ病にかかっている」
「お前、知っていたのか」
メリロに向かって魔女が振り向く。
その表情はいつもと同じで、別段怒っている風ではない。
「はい。リッキーのことを頼まれたときに聞きました」
それを聞いた魔女は頷いて、また顔を前に戻した。
「おい、末息子聞こえていたかい?お前が憎くて手放したわけじゃない。
瞳に映るものだけが、この世の全てではないと言っただろう?」
ロードライトはサンダルのかかとを響かせながら、リッキーに歩み寄る。
その音が近づいてくるにつれ、少年の嗚咽はいつしか止み、その丸めた背が伸びて行く。
「どうするんだい?」
その問いかけを聞いて、少年は目元を拭いながら立ち上がる。
そのまま振り返ると、腰元の皮袋から取り出した小さな羽毛をロードライトに差し出した。
「父ちゃんを助けてください」
赤く泣きはらした瞳を凛とさせて、少年は大きな声でそういった。
それを聞いた魔女は満面の笑みを浮かべながら、
「あい分かった」
と答えた。
次いで一言。
「エルンスト、あんた良い子を持ったよ」
成り行きを見守っていたエルンストは、困惑した様子を浮かべていた。
返す言葉が見つからないのか、そのまま魔女の後ろ姿を見つめていたエルンストに、矢継ぎ早に言葉が降る。
「ぼやぼやしないで、ここに座ってくれるかい、エルンスト」
「あ、ああ・・・」
戸惑いながら、彼はリンジーのすぐそばにある椅子に腰掛けた。
リンジーはというと、一言も発することなく、じっと押し黙ったまま事の成り行きを見守っている。
メリロは、彼のその胆力に感心する。
おそらく、これまでの全ての事柄を把握しているのは自分一人であろう。
故に分かるのは、リンジーただ一人が蚊帳の外だったという事だ。
彼には一番疑問が多いはずだ。しかし一言も発することなく、ただ見守っている。
メリロはそこに、リッキーとは違うものを感じる。
言うなれば、彼はすでにプロであるという事だろう。
灼熱の大地で初めてリッキーに出会った時、メリロは少年の好奇心を若さゆえだと思っていた。
しかし、それは違っていたらしい。
少年の兄の年はそう自分と変わらないように見受けられる。
若いというだけならば、彼だって充分に若い。
意識すると言うことが、こんなにも彼を本物へと導いている。
なんとなく、メリロは彼のガイドとしての力量を垣間見た気がしていた。
「末息子、手のひらにそれを乗せてしっかり手を開いていろ」
そう呟くなり、ロードライトは右手を開く。
その手に、部屋の空気が凝縮してゆく。正確には、室内の水分が。
一瞬にして凍結しながら集まって、それは針のような形へと姿を変えた。
相変わらず、ロードライトの呪は見事だった。
この乾燥し、なおかつ涼しくはない土地で、空気中の水分を集め凍結させるのは容易なことではない。
出来上がったそれをつまんで、躊躇することなく羽ごと軽く突き刺す。
「痛っ」
リッキーが顔をしかめたのと同時に、それは一瞬の後に消え去っている。
真っ白な羽毛が鮮血を吸って、薄桃色に輪染みのように変色してゆく。
「メリィ、後学のために教えておいてやる。これが血の契約ってやつだ」
その言葉に、メリロは驚いて駆け寄る。
魔女は簡単に言ってのけるが、それは自分の肉体を犠牲にするというものではないのか。
「し、師匠!」
「バカ弟子、早合点するんじゃないよ。血の契約ったって、対価が必要なものばかりじゃないんだよ。これは誰が願うのかって事が大事なんだからね」
相変わらず、師の教えは大雑把過ぎて皆目分からない。
しかし、リッキーが安全なのであれば、ここはその疑問をきれいさっぱり忘れることに決めた。
「メリィ、お前もフェニックスを見てきたんだろう?」
「ええ・・・はい」
何か嫌な予感がする。今までこういう予感は外れた事がない。
「幻炎を再現できるのはお前しかいないから、お前火を呼びな」
やはり予感は的中した。
そんな無茶な話があって良いのか。
「私が神獣の幻炎を再現できるはずがないでしょう?!」
焦って師に訴えかけるが、どうせ却下されるのは間違いないだろう。
だが、無駄と分かっていても抗議せずにはいられない。
「やれ」
一刀両断でばっさり切り捨てられる。
内心で舌打ちしつつも、逆らえるはずがないから、メリロはおとなしく言われた通りにする。
勿論やり方など教えてもらえないから、全くの手探りだ。
忌々しい数々の経験が頭を駆け巡って行くが、それを振り払うようにして火を呼ぶことに集中する。
雑念を払うように瞳を閉じて、フェニックスを思い浮かべる。
熱くはない火を。
その燃える深紅を。
神々しさを。
ただ、思う。
轟、と何かが着火した。
チリチリと弾けるもの。
まずい、あれを呼んでしまった。
止めなければととっさに思い、瞳を開きかけるが、何者かの手で制される。
「心配するな。続けろ」
耳元で師の声がした。
その声に助けられて、メリロは先を続ける。
瞼の奥にまた何かがうつりこんで行く。
あれは、何だ。知っているような気がする。
否、見たことがある。
あれは、自分?
そんなはずはない。
――――アレハ、火事ニナルマエ
その言葉に、瞳を見開く。
今何と。己は今何を思った。
断片的に、欠けていた記憶が脳裏へと戻されて行く。
そう、あの日も火を呼んだのは自分だ。
弱い心を止められなかったから。
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